近年、箱根駅伝でずっと中心にいて、王者に君臨する青山学院大学。
しかし、2000年当初は、箱根駅伝では弱小大学でした。なんと1976年を最後に、箱根駅伝には出場していなかったのです。
変わったのは、2004年(平成16年)に、原晋さんが陸上部監督となってからです。
原監督の就任当初はひどい状態で、選手はやる気がないし、OBに足を引っ張られたり、何度もクビになりかけたり…。
そこから箱根駅伝の王者になるまでが、とても興味深いんです。
でも、青山学院大学としては本当に良かったですね。原監督以外の他の指導者だったら、こうはいかなかったでしょう。
ということで、原晋監督がどんな人物なのか、お話をさせていただきます。
目次
原晋さんはこんな人
広島県東部の三原市出身の原晋さんは、三原第一中学、世羅高校、中京大学、そして社会人では中国電力で陸上選手として活躍。
現役引退後は中国電力で伝説の営業マンとして、抜群の結果を残しておられます。
その後、2004年(平成16年)に青山学院大学の陸上部監督となられて、今に至ります。
陸上選手としては微妙かも
小さな頃から運動がよくできた原晋さんは、中学1年のときにマラソン大会で上級生をおさえて校内1位になるなど、才能の一端をみせています。
そして、高校3年生のときに主将として活躍し、全国高校駅伝競走で、世羅高校は準優勝しています。
この当時は部内の寮で、先輩が後輩に日常的に暴力をふるっていたようですが、主将だった原監督が暴力禁止にしたそうです。
原監督が卒業すると、また下級生への暴力は復活してしまったようですが…。
この年代って、こういうことする世代ですね。10年若い僕らの時代でも、寮生活では先輩による暴力行為が残っていたといいます。
身体は成長しても心は未成熟で、大人の目が入らないとこんなことになるのは残念です。今はかなり減ったかもしれませんが…。
その後、世羅高校の顧問に薦められて中京大学に進み、3回生のときに日本インカレの5000mで3位となっています。
しかし、練習もサボり気味だったようで、良い成績はこのときだけだったようです。
名古屋にある中京大学ですから、当然ですが箱根駅伝には出場していません。
原監督は『世羅高校は自分の意思で行ったので、がんばる覚悟があったが、中京大学は他人に薦められて行っただけなので、何の覚悟もなく、楽な方へ流されてしまった』と語っています。
大学卒業後は、中国電力の陸上部の起ち上げに参加します。
『1回、中国駅伝(現在の全国都道府県対抗駅伝)に出てくれればいいから』と口説かれて、入社。
地元の超優良企業で、それほど高くない目標を示されたことで喜んで入社されたそうです。
1991年には中国駅伝に、1993年には全日本実業団駅伝(ニューイヤー駅伝)にも出場されています。
しかし、入社1年目に足首を捻挫してから満足な走りができなくなっていたこともあり、1994年(平成6年)ひっそりと引退されています。
中国電力で伝説の営業マンに
陸上競技を引退した27歳から、18歳の新入社員に混ざって、イチから仕事を覚えはじめた原監督。
周りの目も冷たく、イチから仕事を覚えて悪戦苦闘することも相当つらかったようで、気持ちが荒れて酒浸りだったようです。
陸上競技を引退した選手が、所属の優良企業で仕事を始めるにしても、それまでの待遇との落差も大きく、また周囲の冷たい視線などもあって、会社に居づらくなり退職に追い込まれるケースも多いようです。
しかし、このまま落伍者にはなりたくなかったという原監督。その頃に奥様の美穂さんと出会い、結婚。
営業所勤務から、電力の提案営業や氷蓄熱式空調システム「エコアイス」の売上で社内1番になるなどして評価を上げ、新会社「ハウスプラス中国住宅保証」の起ち上げに参加。
原晋さんは、ここでも抜群の売上で貢献していました。
そんなとき、世羅高校の2年後輩で青山学院大学・陸上部OB、のちに放送局「中国放送」の営業部長になる瀬戸昇さんから電話がかかってきたそうです。
『原さん、青学が陸上部の監督を探しているんですけどね。興味ありませんか?』
青山学院大学・陸上部監督になりたい
陸上や駅伝への未練はとうに断ち切ったはずでしたが、その誘いを受けて、陸上への熱い思いが一気に吹き出した原監督。
といっても、3年の嘱託契約。結果が出せなければ、簡単にクビを切られることは目に見えています。
それに、他にも監督候補がたくさんいて、オリンピック出場歴のある人、陸上界で著名な人などがリストアップされていたそうです。
また、広島市内に家を購入したばかりでした。
そんな厳しい条件に、奥様やご両親からも大反対されたようですが、もう止まりませんでした。
『青学に行きたい!陸上部監督として、箱根駅伝に出場したい!』
営業経験を活かしたプレゼン
大学の強化委員会とOB会を前にしての、プレゼンテーション。まずは他の監督候補に勝たないといけません。
関東の大学出身でないため、箱根駅伝を走ったことがないというのは、大きなマイナスポイントですね。
『3~5年で箱根駅伝に出場。5~9年でシード権。10年で箱根駅伝優勝を目指す。』
『選手個々の強化とともに、人間教育もしっかり行っていきたい』
誰にでもわかりやすい目標と強化していく理論をしっかり訴え、みごとに青山学院大学・陸上部監督の座を勝ち取ります。
奥様・美穂さんも寮母として、半強制的に採用されます。
お2人に子供がいなかったことが、かえって良かったかもしれませんね。
青山学院大学・陸上部監督としての苦悩
意気揚々と上京して、青山学院大学・陸上部監督となったものの、七転八倒の毎日だったようです。
寮は新たに用意されたものの、当時は専用グランドもなく、選手もそれまでの同好会のような雰囲気から、いきなり箱根駅伝出場を目指すと言われても、最初は戸惑うばかりだったことでしょう。
日常生活から立て直す
まず、当時の青山学院大学の選手たちの意識は低いものでした。
朝6時からの朝練も寝坊する、雨が降ったら休みだと思って寝ていたなど、現在の青山学院大学からは想像もできないくらい、ゆるい雰囲気だったようです。
そういう選手たちを頭ごなしに怒るのではなく、少しずつ諭していった原監督。
強くなるために、生活態度から改めようと、ルールを整備していきます。
・夜は10時に消灯。無断外泊は厳禁。
・酒、タバコ、麻雀、パチンコ禁止。
3つ目なんか、なんやねん!と突っ込みたくなりますね。しかし、最初はそのルールも守らない選手も多かったようです。
目標管理シート
そして、営業マン時代に培った『目標管理シート』に、1年の目標、1ヶ月の目標を書かせて、寮内に張り出します。
そして、選手同士でミーティングを行い、目標達成度を確認しながら、目標達成のために何をしていくかを明確にしていきます。
選手がお互いに、相手の現状と目標を共有して、みんなの底上げを図る中で、チームとして一体感を出していく狙いがあります。
リディアード理論
原監督は青山学院大学を強化していくのに、リディアード理論を元に育成していきます。
速く走れないのはスピードがないのではなく、スタミナがないからである。だから、スピードを上げる前に、スタミナをつけていく
という、アーサー・リディアードの理論を浸透させていきました。
理屈で納得できなければ、若い人は自分から進んで、つらい練習に打ち込めませんからね。
頭ごなしにやらせる旧来のやり方では、良い成績にはつながらないでしょう。
寮生活の心得3カ条
また、心得3カ条を示しておられますが、これはわれわれ大人にも当てはまると思います。
一、感動を人からもらうのではなく、感動を与えることができる人間になろう
一、今日のことは今日やろう。明日はまた明日やるべきことがある
一、人間の能力に大きな差はない。あるとすれば、それは熱意の差だ
何度もクビになりかける
それでも、最初の3年間は成果が上がらなかったようです。
箱根駅伝予選会の成績でみると、監督1年目の2004年(平成16年)は16位。2年目の2005年(平成17年)は13位。
嘱託契約が切れる3年目の2006年(平成18年)で、大失敗をしてしまうのです。
高校生のスカウトで失敗し、陸上部が崩壊寸前に
2006年(平成18年)、原監督は青山学院大学との嘱託契約3年目。最終年ということで、契約がもうすぐ切れてしまう焦りから、高校生ランナーのスカウトにおいて、人間性よりもベストタイムで選んでしまいました。
後に、1年で退部・退学していく3人の選手の5000mのベストタイムは、当時の青山学院大学ではかなり優秀な14分16秒、14分22秒、14分28秒でした。
『今は生活態度に問題があっても、しっかり話し合えばわかってくれるはず』と思ってスカウトした選手たちが、ことごとく期待を裏切ったそうです。
ピアスをつけ、茶髪にモヒカン頭で、寮の中やその周辺をのし歩く。
寮のルールも門限も守らず、まじめに練習しない。
いつもメンチを切って歩き、他の選手に因縁をつける。
しかし、陸上のタイムがいいので、先輩たちも注意できないという状態だったそうです。
「あんたらより結果だしてるのに、何の文句があるん?」みたいな感じだった。
原監督も他の選手も心を痛め、まっとうな方向に持っていこうとしたようですが、全くダメ。
結局、入学早々6月には退部して学校もやめたり、合宿の最中に逃げ出しておきながら、ちゃっかり大学には居座っていたり、箱根駅伝予選会の後で退部したりと、散々だったようです。
おかげで陸上部は崩壊寸前までいってしまったようです。
結局、3年目の2006年(平成18年)の箱根駅伝予選会は16位に沈みます。
大混乱の中で、当時の女子マネジャーから「みんなの前で謝ってください」などと言われたり、かなり屈辱的な目にも遭われたようです。
しかし、そんな中でも美穂夫人が矢面にたって「謝る必要などありません!」と毅然とかばい、原監督を守られたそうです。
こうしたとき女性は萎縮して黙ってしまうケースが多いと思いますが、美穂夫人のこの度胸が素晴らしいですね。
一部OBが暗躍
原監督はそうした状態の中でも悪戦苦闘していましたが、こうなってくると騒ぎ出すのが一部のOB。
「原は所詮シロウトだよ。箱根にも出たことないし、中国電力もクビになったらしい。あいつの言うことなんか聞く必要ないぞ。」
選手にそんなことを吹き込みだします。
36歳で中国電力を辞めて、みずから退路を断って上京した原監督に対して、OBや一部の選手も足を引っ張ったようです。
今までの仲良し同好会のような中で育った選手には、選抜合宿の意義もわからず、自分たちがのけ者にされたような気分の部員もいたようです。
要は、意識の低いシロウトの中に、プロのやり方を導入したことで反発もあったようです。
原監督はたいへんなストレスで、げっそり痩せたそうです。
人間窮したら、基本に立ち返る
そのような絶望的な状況の中、青山学院大学との契約更新の時期がやって来ます。
2006年の秋、原監督は大学執行部の前でのプレゼンに臨みました。
陸上部のレベルが上がっているといっても説得力がないので、人間教育が成果をあげつつあるということを強調します。
『陸上競技でいい結果を出すためには、まず人間として常に規則正しい生活を送らなければならない。そういう習慣をつけさせるには、人間形成からしっかりやっていく必要がある。
今ほとんどの選手はきちんとした態度で寮生活を送っています。選手としてという以前に、人として学生として、どこに出しても恥ずかしくない人間に育っている。』
結果が出ていないからと言って、苦し紛れに奇をてらったアイデアなど並べ立てても意味がない。
人間は窮したら基本に立ち返ること。何度も人生の危機を経験して、原監督がつかんだ真理でした。
嘱託契約はどうなるのか?
答えは「もう1年、監督をやってください。」
そもそも、たった3年で箱根駅伝に出られるようにしろ!という方がムチャクチャですよね。
主将・檜山雄一郎の改革
なんとか皮一枚、ギリギリ首がつながった原監督。
2006年に退部者が続出し、最悪な状況になってしまったことに心を痛めていたのが、4年で主将となった檜山雄一郎選手でした。
彼は原監督と話し合い、主将として率先してチームを改革していきます。
・風呂、トイレなど寮の共用スペースを、みんなで掃除
・午前5時30分までにストレッチを終え、朝練を行う
・朝食は午前7時10分から、みんなで食べる
・夕食は午後7時40分から、みんなで食べる
・入浴は午後9時45分まで
・門限は午後10時
ようやく、現在の青山学院大学のベースが作られていきました。
学生には厳しすぎる管理だと思われるかもしれませんが、ほとんどプロ選手である彼らが、厳しい競争の中で結果を出すためには、仕方ないことですね。
そのぶん苦楽をともにする彼らの結束は、他ではあり得ない強いものとなることでしょう。
2007年、箱根駅伝予選会の制度に泣く
2007年(平成19年)、箱根駅伝予選会の成績は9位でした。本来なら箱根駅伝に出場できる順位です。
しかし、今は廃止された関東インカレのポイント加算によって10位となり、次点となってしまった青山学院大学。
規模が大きいメガ大学に圧倒的に有利で、かつ卑怯な制度だったといっていいでしょう。
青山学院大学にようやく一体感が生まれてきたのに、こんなことにも泣いてきたのです。
原監督と奥様の美穂さんは、『あの落選は本当に悔しかった』と語っています。
そして、今度こそクビになるかもしれません。
関東学連選抜を大躍進させる
4年目の箱根駅伝予選会でも、結果が出せなかった原監督。
しかし、箱根駅伝予選会で次点となった大学の監督は、慣例として『関東学連選抜(現在の関東学生連合)』の監督を任されることになっています。
そのため、2008年(平成20年)の第84回・箱根駅伝において、原監督は関東学連選抜を率いています。
この頃は、関東学連選抜がもしシード圏内(10位以内)に入ったら、翌年のシード校は1校減って9校になっていました。
つまり次の予選会から出場できる枠が1校ふえることになっていました。
そのため、ギリギリ箱根駅伝に出場できなかった大学に所属する選手にとっては、関東学連選抜の成績は非常に意味があったのです。
しかし、それでも寄せ集めのチームのためか、これまで16位が最高順位でした。
原監督は考えました。
『箱根駅伝予選会に落ちたとはいえ、各校のエース級の選手が集まってきているのに、どうしてこうなってしまうのか?
全員で勝ち取ろうという目的意識がなかったからだ!』
そこで、最初に一堂に会したときにミーティングを行い、全員での目的意識を確認し合いました。
ここで『総合3位』を目標に、選手が一致団結しました。
そして、2008年(平成20年)の箱根駅伝で、関東学連選抜チームは総合4位となります。
関東学連選抜チームにおいて、この順位はいまだに破られていません。
この動画(1:09:15~)をご覧ください。寄せ集めのチームとは思えないほどの一体感があります。
たとえ寄せ集め集団でも、選手たちのやる気さえ引き出せれば、大きな成果を挙げられることを証明するとともに、原晋という人間の指導力がきわめて高いことを証明することとなりました。
この関東学連選抜チームの見事な采配によって、原監督は青山学院大学の正職員になりました。
ようやく不安定な立場から脱することができました。
つまらない文句を言う輩たち
ところが、このことが関東学連選抜が上位になるはずがないと思っていた大学関係者を慌てさせます。
関東学連選抜チームがシード権を取ることに対して、異議を唱えるバカな輩がいて、今はオープン参加で、順位がつかなくなってしまいました。
シード権が欲しい気持ちはわかりますが、「寄せ集めのチームになんか負けるなよ!」と言いたい。
関東学生連合のメンバーにもやる気を持たせてあげるためにも、より緊張感をもって箱根駅伝を戦うためにも、関東学生連合にも順位をつけるやり方に戻して欲しいと思います。
大歓喜の箱根駅伝予選会突破
2009年(平成21年)の箱根駅伝に出場するための、予選会は2008年10月18日に行われました。
この年は記念大会であり、関東学連選抜がシード権をとったため、出場校は13位までとなっていました。
最初のプレゼンで『3~5年で箱根駅伝に出場を目指す』といっていた最終年となっていました。
しかし、マネージャーが集計したタイムだと、次点だったそうです。
『やっぱりダメか…』
がっくり肩を落としていると、テレビ局や新聞社などに囲まれたそうです。そのとき最後の発表がされました。
『第13位。青山学院大学!』
みんなものすごい喜びようです。この動画(4:39~)をご覧ください。
『原監督が一番うれしかった瞬間は?』と聞かれたときには、いつもこの『箱根駅伝予選会を初めて突破したとき』を挙げておられます。
それと同時に、前年の予選会で次点だったことが本当に悔しいようで、あの一番の功労者である檜山雄一郎選手を、箱根駅伝で走らせてあげたかったとおっしゃっています。
ちなみに、33年ぶりの出場となった2009年の第85回大会は、いきなりシード権を目指しても厳しいこともあり、また出場できるだけでよかったとのことで、結果度外視でレースに臨み、22位で終えています。
箱根駅伝シード権の常連校に
箱根駅伝に出場したことは大きな変化でした。
上昇気流に乗っている大学として注目されはじめ、高校生ランナーのスカウトで良い選手が集まり始めます。
もともと青山学院大学自体もブランド大学で、オシャレでかっこいい大学というイメージも味方します。
まず高校生ランナーの親御さんとしては、もし陸上で大成しなかったとしても、最終学歴が青山学院大学となることは安心材料にもなります。
次の2010年(平成22年)の第86回大会では、箱根駅伝・本戦で一躍8位となり、41年ぶりにシード権を獲得します。
以降、2023年の第99回大会まで、シード権はずっと維持し続けています。
箱根駅伝の常連校、シード権の常連校となったことで、どんどん良い方向に物事が回っていきました。
原マジックと呼ばれるようになったのも、この頃ではないでしょうか。
●2010年(平成22年) 第86回大会 8位
●2011年(平成23年) 第87回大会 9位
●2012年(平成24年) 第88回大会 5位
●2013年(平成25年) 第89回大会 8位
●2014年(平成26年) 第90回大会 5位
箱根駅伝・初優勝
そして、2015年(平成27年)第91回大会、念願の初優勝に輝きます。原監督の就任11年目でした。
このときは駒澤大学が優勝候補でしたが、5区・山登りで、あの神野大地さんがトップに立つと、山の神と呼ばれるようになったことは記憶に新しいところです。
そのまま復路も危なげなく進み、大手町にゴールしました。
総合優勝が決まる瞬間、アナウンサーの言葉が素敵でした。
『妻・美穂夫人とともに二人三脚。手探りの中、選手と共同生活をして、チームを作り上げてきました青山学院大学の原晋監督です。
何度も何度も予選会に跳ね返されました。学校にグラウンドがなく、大学から5km先の町田市の競技場まで、自転車で通った時期もありました。
ノウハウも何もない中ではじめたあの頃を思い出すと、こみ上げるものがありますと、今朝、芦ノ湖で原監督はそう語りました。
アンカーの安藤悠哉。トップでそのたすきを運んできました。
しかし、その頃から選手たちの気持ちを作るために、いつか箱根で優勝するチームを作るために、選手たちに語り続けてきました原晋監督。
ついに夢物語を現実にする日が来ました。青山学院大学、悲願の箱根初優勝!』
人を育て 組織を鍛え 成功を呼び込む 勝利への哲学157 ~原晋、魂の語録
その後の青山学院大学と原晋監督
その後、青山学院大学は箱根駅伝4連覇。すっかり大学駅伝の中心、王者となりました。
積極的な情報発信
また、原監督は陸上界全体を盛り上げるために、メディアにも積極的に出演しています。
そうした姿はやっかみの対象になったり、批判されることもあります。しかし、原監督がメディアに出続けたことで、大きな宣伝効果もあったはずです。
今後も様々なことを発信していかれることでしょう。
そして、お子さんのいない原監督ご夫婦にとって、教え子がおふたりのことを父母として慕ってくれることでしょう。
箱根駅伝5連覇を逃した2019年、三大駅伝報告会において『もし5連覇できていたら退任するつもりだった』と発言し、周囲を慌てさせた原監督でしたが、『まだ続けなさい』という意味だととらえ、頑張っていただけるようです。
ただ、原監督は故・小出義雄さんのように、オリンピックで金メダルを取れるような選手を育成する方向にいこうとされてたのかなと思ったりします。
まぁ原監督ほどの人なら、どこからでも引く手あまたでしょうけども、これからもご活躍されるのを見ていきたいと思います。
原晋監督の2017年度・修士論文
原監督は、早稲田大学大学院スポーツ科学研究科のトップマネージメントコースで学んでおられたのか、青山学院大学の監督に就任されてから4連覇するまでの軌跡について、論文を残されています。
他大学の監督や駅伝ファンにとっても、かなり参考になるのではないでしょうか。
下記からご覧ください。
最後に
原晋監督の経歴、いかがだったでしょうか?
何度も失敗しながらも大きな結果を出していかれる姿は、地元・広島の英雄である知将・毛利元就のようですね。
原監督の姿を通して、自分も学んでいき、大きな結果を出せるように頑張っていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。